三国戦記 近江舞子ブログ

ごっつ三国、一騎当千サーバー、三国戦記所属、アカウント近江舞子のブログですー。

復習2「漢王朝の成立」


f:id:ohmimako:20220906135426j:image

国家を大家族の集合体と見立て、家族の絆と家訓によって治める儒教

皇帝という人類の頂点に立つものが発した命令「法」に全てを帰属させる法治

中華の統治概念はこの2つに絞られ、以降の歴史はこの概念のシーソーゲームで推移していきますー!

周の統治体制は自然発生的に誕生した邑は飽くまで宗族の物で、邑の中はそれぞれの宗族の宗法で治められていましたー!

王はそれぞれの経済圏の邑を束ねる役職として世襲させていましたー!

それに対して始皇帝が敷いた郡県政は中華を郡、県という形に区分けし、それぞれの知事を世襲させず任期付きで任命するという物でしたー!

秦の天下統一後4年で始皇帝が死去すると、実権を握った趙高と李斯は法治の概念をさらに加速させます!

ついには各邑の中に役人を送り込み、邑を秦王朝が無理矢理支配しようとしましたよー!

これには各宗族が猛反発しますー!

祖先が切り開いた村をせっせと城壁で囲み、今日まで宗族総出で護ってきた邑がある日突然皇帝の所有物になる、これは確かに納得行きませんねー。

これに面食らった趙高と李斯は宗法よりも国家法を重視させるため国家法違反の刑罰をどんどん厳しくしましたー!

この方針が大量の犯罪者を作り出し、邑に居られなくなった犯罪者は邑の外の世界「山奥」に逃亡しましたよー!

邑外の世界を山奥と言い、犯罪者となって邑から出た人のことを山賊と言いますー!

厳しすぎる国家法は大量の犯罪者を産み出し、山賊の勢力はどんどん膨れ上がっていきましたー!

ある日膨れ上がった山賊は陳勝呉広の乱と呼ばれる大規模反乱を引き起こしますー!

何とかこの反乱を治めた秦王朝でしたが、中華の民衆に対して徳を失っていることが明るみに出てしまい、秦王朝は急速に力を失います。

これを見ていた戦国時代の強国楚の大将軍項燕の息子、項梁はかつての楚王の血筋の者を懐王として立てて、法治から儒教への回帰を訴え楚を旗揚げしますー!

これに山賊が呼応し、楚の勢力は一気に膨れ上がりましたー!

懐王は関中(函谷関より咸陽寄りの地域)に一番最初に入ったものを楚王とし、その他はその配下とするという約束を発布します!

楚の上将軍である項籍(項羽)と同じく楚の将軍だった劉邦は一様に咸陽を目指しましたー!

予定通り項羽が一番乗り、楚皇帝懐王を権威に楚王項羽が実権を握ってめでたしめでたし、

このシナリオをぶち壊した人がいましたー!

関中一番乗りは劉邦

こうして秦王朝は成立からたった15年で滅びましたよー!

懐王の約束通りなら劉邦が王となり、項羽がその配下となるわけですが、項羽はそれを受け入れず、劉邦を漢中という未開の地に左遷してしまいましたー!

面子を潰された懐王と項羽の関係は悪化し、ついに項羽は懐王を殺害してしまいましたー!

儒教における禁忌と言える主君殺しをやってしまった項羽の元から諸侯はどんどん離反していき、逆に主君懐王の仇討ちを旗印に掲げた劉邦の元に人材が次々流入し、遂に劉邦項羽を下し、漢の高祖として中華を統一しましたー!

劉邦は郡国制と呼ばれる統治方法を選択しましたー!

漢建国時点で既に王の称号を持っていた韓信や英布達から称号剥奪することはせず、王が治める国と漢王朝が治める直轄地の郡を混在させる方法ですー!

この後劉邦は王達の粛清に走り中央集権化を図るも、匈奴冒頓単于にボロ負けし、漢は匈奴の属国となりましたー!

7代皇帝の武帝の時代には匈奴を退け、漢は中央集権法治国家として確立するも、武帝儒教を国教として取り入れることで法治と儒教統治の両立を打ち出し、漢は安定国家として400年もの月日を歴史に刻みましたー!