復習2「漢王朝の成立」
国家を大家族の集合体と見立て、家族の絆と家訓によって治める儒教
皇帝という人類の頂点に立つものが発した命令「法」に全てを帰属させる法治
中華の統治概念はこの2つに絞られ、以降の歴史はこの概念のシーソーゲームで推移していきますー!
周の統治体制は自然発生的に誕生した邑は飽くまで宗族の物で、邑の中はそれぞれの宗族の宗法で治められていましたー!
王はそれぞれの経済圏の邑を束ねる役職として世襲させていましたー!
それに対して始皇帝が敷いた郡県政は中華を郡、県という形に区分けし、それぞれの知事を世襲させず任期付きで任命するという物でしたー!
秦の天下統一後4年で始皇帝が死去すると、実権を握った趙高と李斯は法治の概念をさらに加速させます!
ついには各邑の中に役人を送り込み、邑を秦王朝が無理矢理支配しようとしましたよー!
これには各宗族が猛反発しますー!
祖先が切り開いた村をせっせと城壁で囲み、今日まで宗族総出で護ってきた邑がある日突然皇帝の所有物になる、これは確かに納得行きませんねー。
これに面食らった趙高と李斯は宗法よりも国家法を重視させるため国家法違反の刑罰をどんどん厳しくしましたー!
この方針が大量の犯罪者を作り出し、邑に居られなくなった犯罪者は邑の外の世界「山奥」に逃亡しましたよー!
邑外の世界を山奥と言い、犯罪者となって邑から出た人のことを山賊と言いますー!
厳しすぎる国家法は大量の犯罪者を産み出し、山賊の勢力はどんどん膨れ上がっていきましたー!
ある日膨れ上がった山賊は陳勝、呉広の乱と呼ばれる大規模反乱を引き起こしますー!
何とかこの反乱を治めた秦王朝でしたが、中華の民衆に対して徳を失っていることが明るみに出てしまい、秦王朝は急速に力を失います。
これを見ていた戦国時代の強国楚の大将軍項燕の息子、項梁はかつての楚王の血筋の者を懐王として立てて、法治から儒教への回帰を訴え楚を旗揚げしますー!
これに山賊が呼応し、楚の勢力は一気に膨れ上がりましたー!
懐王は関中(函谷関より咸陽寄りの地域)に一番最初に入ったものを楚王とし、その他はその配下とするという約束を発布します!
楚の上将軍である項籍(項羽)と同じく楚の将軍だった劉邦は一様に咸陽を目指しましたー!
予定通り項羽が一番乗り、楚皇帝懐王を権威に楚王項羽が実権を握ってめでたしめでたし、
このシナリオをぶち壊した人がいましたー!
関中一番乗りは劉邦!
こうして秦王朝は成立からたった15年で滅びましたよー!
懐王の約束通りなら劉邦が王となり、項羽がその配下となるわけですが、項羽はそれを受け入れず、劉邦を漢中という未開の地に左遷してしまいましたー!
面子を潰された懐王と項羽の関係は悪化し、ついに項羽は懐王を殺害してしまいましたー!
儒教における禁忌と言える主君殺しをやってしまった項羽の元から諸侯はどんどん離反していき、逆に主君懐王の仇討ちを旗印に掲げた劉邦の元に人材が次々流入し、遂に劉邦は項羽を下し、漢の高祖として中華を統一しましたー!
劉邦は郡国制と呼ばれる統治方法を選択しましたー!
漢建国時点で既に王の称号を持っていた韓信や英布達から称号剥奪することはせず、王が治める国と漢王朝が治める直轄地の郡を混在させる方法ですー!
この後劉邦は王達の粛清に走り中央集権化を図るも、匈奴の冒頓単于にボロ負けし、漢は匈奴の属国となりましたー!
7代皇帝の武帝の時代には匈奴を退け、漢は中央集権法治国家として確立するも、武帝は儒教を国教として取り入れることで法治と儒教統治の両立を打ち出し、漢は安定国家として400年もの月日を歴史に刻みましたー!
再開!復習「中華史、統一国家誕生まで」
お久しぶりの再開でーす!
前回までのまとめでーす!
アフリカから人類が中華に到達し、中華の人類は外敵から身を守るため男系男子を中心とした大家族「宗族」を作り同姓の者だけで村を作りましたー。
この村を城壁で囲った物を邑といいますー。
邑の中は宗族の家訓の様なもの「宗法」で治められており、それぞれが都市国家として独立していましたー!
邑は分かっているだけでも2500個ほどあり、邑同士は縄張りを巡って争ったり、婚姻を通じて徐々に統合されましたー!
ある時、占いを得意とする商という邑が誕生し、周りの邑の族長は占ってもらうために商邑に貢物を捧げましたー!
諸侯邑は商邑を大邑商と呼び崇拝しますー!
この占い師と信者のネットワークの事を殷といいますー!
この殷の占いの方法は亀の甲羅を焼いてそのヒビの形で吉凶を占うというものでしたー!
このヒビの形を記録したことから甲骨文字が生まれ、やがて漢字になりましたよー。
この殷の占いを用いた体制を神権政治といいますー!
殷の人達は同じ占いネットワークから奴隷を拐ってくることが出来なくなり、羗族を拐って奴隷にしていましたー!
それに怒っていた羗族の老人、太公望は有力宗族の姫氏に取り入り、商邑に反乱を起こすことを勧めますー!
そして太公望は姫氏の勢力「周」の軍師として牧野の戦いで商邑を打ち倒しましたよー。
これにより占い師の力は商の族長紂王の元から姫氏の武王の元に移りましたー!
占いの力が別の姓の宗族に移ることを易姓革命といいますー!
武王は中華を経済圏ごとにわけ、国としましたー!国を統治するために姫氏の者達を王に任命しましたよー!
この王朝が王を任命する体制を周の封建制といいますー!
王朝が姫氏の宗族長、姫氏から選ばれた王達は姫氏宗族の家訓「宗法」に縛られますー!
それから数百年経ち、血縁が遠くなるにつれて王朝の王達に対するグリップが弱くなり、国同士は縄張り争いを始めましたー。
そうこうしている間に周王朝は異民族によって滅ぼされ、洛陽で再興するも王朝としての力を失ってしまいますー!
中華から王朝がなくなり、王朝が任命した数々の国が残りましたー!
国同士は次の王朝の座を巡って本格的に争いだしましたー!
これを春秋戦国時代といいますー!
これを嘆いた魯国の学者、孔丘は各地の宗法を体系的にまとめ儒教を完成させましたー
姫氏の国王は宗法に沿って姫宗族長の周王朝に尽くすべき!この宗法を用いた国家統治システムのことを儒教と言いますー!
無数の大家族の集合体、これが周王朝の統治構造でしたが、中東からのイノベーションで500年続いた春秋戦国時代のパワーバランスが崩れます
アケメネス朝ペルシャがアレクサンダー王の侵攻により滅ぼされますー!
国を追われたペルシャ人はスキタイという遊牧の民となり、安住の地を求めて東へ逃亡しましたよー!
中華にたどり着いたペルシャ人は2手に分かれますー!
遊牧に馴染んだ者は匈奴として中華の北部で遊牧生活を営み、定住を望む者は同じペルシャ人が祖先である秦という弱小国家に流入しましたー!
秦の初代は非子というペルシャ人ですー!
非子は馬の育成名人で有名でしたー!
周の孝王は非子に馬の育成を依頼し、それに応えて非子は立派な名馬を次々孝王に献上しましたー!
孝王はこれを喜び、秦という牧畜用の邑を設立し、非子に秦邑の祖先となることを許しましたー!
この時孝王が非子に与えた姓が「嬴」ですー!
嬴はコンドルの象形文字です
ゾロアスター教という原始宗教を信じるペルシャ人がコンドルを崇めたことから付けられた姓ですー!
ただの牧場に過ぎなかった秦邑はアケメネスペルシャの人々の流入で一気に強国になりますー!
その秘密はハンムラビ法典と製鉄ですー!
ペルシャ人が持ち込んだ国家法という新概念と鉄製の武器で秦は中華を制圧出来る武力を持ちましたー!
31代秦王嬴政の時代には韓非子と李斯によって法治という概念が産み出され、秦は万里の長城建設を以て初めて中華の範囲を確定し、法治国家秦を爆誕させ、自らを始皇帝と呼称しましたー!
ちなみに中国人が言う法治の法とは皇帝の命令という意味ですー!
私達日本人が思い浮かべる法治とは別物なのでご注意くださーい!
スパイはやっぱり死刑
「支援物資が少ない!」
こんな情けない理由で蜀攻めを敢行した劉備軍にはもはや大義も何もありませーん。
劉璋から預かった兵士をそのまま蜀にぶつけましたよー。
まさに下衆の極みですねー。しかし元から劉備とはそういう人ですー。
劉備はキレやすく、すぐに恩人を裏切る癖がありますー。
五斗米道から守ってもらうはずだった劉備がいつものように裏切ったことで劉璋も流石に怒りましたよー。
劉璋軍は劉備軍に抗戦しましたが、ボロクソにやられてしまいますー。
そんな中、雒城というお城に立て籠った張任という武将が劉備軍の進軍を止めましたー。
雒城攻略に劉備軍は一年の時間を費やしますー。
その間に迎えた劉備の誕生日(7/16)劉備軍の陣内でささやかな誕生日祝いの酒宴が開かれましたー。
いい感じに酔っ払った劉備は隣に座っている龐統にカラミはじめますー。
劉備「へへへ、龐統さんよ~俺には分かってるんだぜー。あんた呉のスパイだろ?」
カラミかたが鬱陶しかった龐統はイラついたのでこう言い放ちましたー。
龐統「そうだよーん!!」
劉備「むー、ならお前、孫権のために何か策を授けたことあるんか?」
龐統「孫尚香と劉備が結婚する際、劉備を贅沢漬けにして骨抜きにする作戦、あれ考えたのわしでんねん。」
劉備「くー、あれはキツかったぜ!この正直者!気に入ったぜ!」
この一件で劉備は龐統への信頼をさらに深めたとされていますが、劉備とはそんな器の大きい人間ではありませーん。
この時おそらく劉備はこう思いましたよー。
「この野郎!嘗めやがって!ぶっ殺してやる!」
この一週間後、龐統は雒城包囲戦の最中、流れ矢に当たり死去したとされていますー。
むー、劉備さん、、、あなた殺りましたね?
ここで劉備軍の特徴についてお話しますー。
劉備軍の最大の特徴は劉備自ら先頭に立って戦闘することですー。
徐州時代は旗揚げからの参謀、簡擁という人が事前の戦闘計画を立てていましたが、この簡擁は基本的には戦場には出ません。
劉備軍は劉備が先頭に立ち士気を高め、参謀の立てた大まかなプランを頭に入れた軍人が現場の判断で指揮を採る体制になっていますー。
蜀攻めの参謀となっていた龐統も当然出陣はしていないのですが、何故かこの雒城攻めだけは龐統が劉備と共に出陣し、まんまと流れ矢に当たって命を落としていますー。
1800年前の出来事なので確たる証拠はありませんが、「落鳳坡の衝撃」の真相は劉備が龐統に下した処刑なのではないかなー?と思えてなりませーん。
スパイは死刑2
なかなか荊州空け渡しの約束を履行しようとしない劉備のお尻を叩くため、呉の魯粛からスパイとして荊州に送り込まれた龐統は、諸葛勤からネジを巻かれた諸葛亮の強い推薦で副軍師に就任し、追い詰められた劉備はしぶしぶ蜀攻めの準備を始めましたー。
龐統は蜀の孟達、法正、張松らと内通し、蜀の劉璋に荊州軍を受け入れさせることに成功しますー。
劉備軍は2万の兵で蜀に入りましたよー。
劉備「劉璋くんさあ、俺はあんたを五斗米道から守るために遥々蜀まで来たわけさー、助けてもらうんならそれなりの誠意ってあるよねー。」
劉璋「ぶひー、分かりましたー!」
こうして劉備は軍1万と物資をたんまりせしめましたー。
さて、いよいよ劉備は漢中の張魯を攻めるのかと思いきや、劉備は一向に漢中攻めを始める気配はなく、劉璋からせしめた大量の物資を民や兵に分け与え人気取りを始めましたよー。
そんな中、馬超を倒して西涼を制圧した曹操が再び南下してきましたー。
荊州を守護していた関羽は孫権と共闘し曹操軍の楽進と対峙しますー。
これを見た劉備は関羽軍を補強するために漢中攻めを放り投げ荊州に戻ろうと考えましたー。
曹操を心のそこから恐れている劉備は3万の兵では不安を感じ、劉璋にさらに追加1万の兵と物資を出すように要求しましたよー。
五斗米道と戦う為に1万の兵と大量の物資を劉備に差し出したのに五斗米道をほったらかして荊州に帰るため追加でもう1万。
この劉備の要求は外道のものでしたが、劉璋は要求の半分だけは出して残りの兵で五斗米道に備えましたよー。
これに劉備は超絶怒りますー!
「半分?ケチくさいこと言ってんじゃねえ!」
五斗米道を制圧するために劉備に物資を与えたのにそれを放り出して荊州に帰るだけでも劉璋への裏切り行為。さらに追い銭を要求した劉備の無礼に目を瞑り、劉璋は半分は支払ったわけです。
劉備の怒りは完全に逆ギレですねー。
こうして劉備は手元にいる蜀兵に「家族を殺す!」と脅迫し強制的に劉璋を裏切らせましたー。
そうこうしている間に濡須口の戦いは孫権軍の勝利で幕を閉じましたー。
流石は海軍最強の孫氏ですー。
こうして荊州の憂いは落ち着き、満を持して劉備は蜀の劉璋に攻め込むのでしたー。
劉備の蜀攻めの大義は「貢物が少なかったから」というなんとも情けない物になりましたー。
スパイ罪は死刑1
劉備はこの約束をなかなか果たそうとせず、3年も荊州でのんびりしていましたー。
赤壁の戦いでの配下の働きに報いるため孫権は荊州併合を焦り始めますー。
魯粛は劉備に蜀攻めを勧めた手前、孫権の焦りを敏感に感じ取っていましたー。
魯粛「、、、よし!スパイ送ろー!」
龐統はスパイにするには有名過ぎるのでバレバレですが、呉の意志を伝えるには良い人選ですねー。
実際に龐統が劉備に士官してきた時、劉備はすぐに気がつきましたよー。
劉備「あー、呉が蜀攻めを急かしてきたなー。やべー。」
とりあえず面倒なので劉備は龐統を重く用いず田舎の役人に任命しましたー。
これを見た魯粛は諸葛勤に頼み、諸葛勤の弟、諸葛亮のネジを巻きますー。
兄諸葛勤から促され諸葛亮は劉備に龐統を重く用いるよう進言しますー。
この進言を受けた劉備は遂に観念し、龐統を副軍師に任命し蜀攻めの準備を始めましたー。
蜀攻めのトータルの戦略は龐統が描きましたよー。
大まかな筋書きはこうですー。
漢中に太平道の黄巾族が大量に流入しており、五斗米道と呼ばれる宗教団体に変容していましたー。
五斗米道は入団の際に五斗(18リットル×5)のお米を納めさせたためこの様に呼ばれていましたが、実際は太平道そのものでしたよー。
この五斗米道の勢力が漢中から蜀を狙っていたため劉備が同族である蜀の劉璋を助けるという名目で蜀に入り、そのまま蜀を奪っちゃおうというなんとも卑怯な手段でしたが、まあ劉備にはお似合いの策とも言えますねー。
要地荊州を巡る攻防。
赤壁の戦いの翌年の209年、病弱だった劉琦が病死しましたー。
むー、早い!早すぎる!!
こうして荊州は呉孫氏の傘下に入り、、、ませんでしたよー。
劉備「頼むよー!居候の俺たちの居場所がなくなっちゃうじゃんかー!ちょっと待ってくれよー!」
「曹操の力も及ばず、孫氏の領土もない地域が1つあります!蜀の地ですよー。ここを取って治めれば良いですー!蜀取りを支援する様に我が殿にかけあってみますー!」
これを後に天下三分の計と呼ぶようになりましたが、天下三分の計を発案し劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく魯粛なんですよー。
魯粛は劉備との話を持ち帰り、孫氏の族長孫権に報告しましたー。
確かに劉琦の死亡後は荊州は孫氏に譲渡する約束ではありましたが、劉琦の死亡が想定より圧倒的に早かったため、孫権は荊州譲渡の猶予を与えましたよー。
約束は「劉備が蜀を取ったら荊州を孫権に譲渡する」に更新されましたー!
これを受け、孫権は劉備に約束を課す代わりに妹を劉備に嫁がせることで目一杯の誠意を見せましたー。
挙式のために呉に訪れた劉備でしたが、ここで孫権に耳打ちする者がいましたよー。
龐統「晴れて殿と劉備は義兄弟となったわけですが、この機会に劉備を呉に留め、贅沢三昧を味合わせ、君主として過酷な戦場を走り回るより孫氏の庇護のもと楽しく暮らした方が得策だ!と刷り込んじゃいましょー。」
龐統の策通り劉備は見事に堕落しましたが、お伴の趙雲に超怒られしぶしぶ荊州に帰りましたよー。
この後3年間、劉備は蜀攻めに動くわけでもなく荊州に相変わらず居座ったまま時間だけが過ぎていきましたー。
赤壁の戦い、、、終了ー!
曹操は主に中原で戦績を重ねて来たため、大規模な水軍は持っていません。
そこで荊州の劉表の勢力を傘下におさめ、劉表軍の水軍を呉にぶつけている間に荊州ルートで長江を渡り呉に100万の軍勢で攻め込むつもりでしたよー。
しかしここでトラブル。
劉表が亡くなり、劉表軍下で暗躍する劉備が荊州を2つに割ってしまいました。
さらについていない事に、曹操に徹底抗戦の構えを見せた劉琦派は江夏という荊州の東部を抑えており、荊州から呉に攻め込む陸路は塞がれてしまいましたー。
曹操は、まずは呉を無視し、荊州攻略に全力をあげようと考えましたが、なんと、犬猿の仲だった荊州劉氏と呉孫氏が同盟を結んでしまいましたー。
これにより、荊州に全力を傾けると呉が長江を渡って攻撃してくるという面倒な事態になりましたよー。
そこで曹操は荊州から取り込んだ劉琮派の水軍を核に蔡瑁を水軍責任者とし、曹操軍の水軍をガッツリ増強しましたー。
大量の軍船を制作した曹操は、荊州を後回しにし、長江の最も河幅の広い「赤壁」(河幅5km)を対呉の決戦の地に選びましたよー。
こうして世にも名高い赤壁の戦いが開戦しましたー!!
初手、呉の名将黄蓋が船団を率いて対岸の曹操軍陣に火を放ちましたー!!
終了ーーーー!チーン!!
こうして曹操軍は混乱し、荊州方面からも劉琦軍が火をつけまくったため、曹操軍は大きな被害を出して中原に引き返していきましたとさ。
防衛戦であったため、呉は特に得るものが無かったため、劉琦が生きている間は荊州は劉氏の物であるとお墨付きを出し、呉は非戦闘を約束しましたー。
その代わり劉琦の死後は荊州は呉に併合するということで話はまとまりましたー。
劉琦は生涯の安寧、呉は将来の領地をそれぞれ戦果として得ることとなりましたー。