三国戦記 近江舞子ブログ

ごっつ三国、一騎当千サーバー、三国戦記所属、アカウント近江舞子のブログですー。

再開!復習「中華史、統一国家誕生まで」


お久しぶりの再開でーす!
前回までのまとめでーす!
アフリカから人類が中華に到達し、中華の人類は外敵から身を守るため男系男子を中心とした大家族「宗族」を作り同姓の者だけで村を作りましたー。
この村を城壁で囲った物を邑といいますー。
邑の中は宗族の家訓の様なもの「宗法」で治められており、それぞれが都市国家として独立していましたー!
邑は分かっているだけでも2500個ほどあり、邑同士は縄張りを巡って争ったり、婚姻を通じて徐々に統合されましたー!
ある時、占いを得意とする商という邑が誕生し、周りの邑の族長は占ってもらうために商邑に貢物を捧げましたー!
諸侯邑は商邑を大邑商と呼び崇拝しますー!
この占い師と信者のネットワークの事を殷といいますー!
この殷の占いの方法は亀の甲羅を焼いてそのヒビの形で吉凶を占うというものでしたー!
このヒビの形を記録したことから甲骨文字が生まれ、やがて漢字になりましたよー。
この殷の占いを用いた体制を神権政治といいますー!
殷の人達は同じ占いネットワークから奴隷を拐ってくることが出来なくなり、羗族を拐って奴隷にしていましたー!
それに怒っていた羗族の老人、太公望は有力宗族の姫氏に取り入り、商邑に反乱を起こすことを勧めますー!
そして太公望は姫氏の勢力「周」の軍師として牧野の戦いで商邑を打ち倒しましたよー。
これにより占い師の力は商の族長紂王の元から姫氏の武王の元に移りましたー!
占いの力が別の姓の宗族に移ることを易姓革命といいますー!
武王は中華を経済圏ごとにわけ、国としましたー!国を統治するために姫氏の者達を王に任命しましたよー!
この王朝が王を任命する体制を周の封建制といいますー!
王朝が姫氏の宗族長、姫氏から選ばれた王達は姫氏宗族の家訓「宗法」に縛られますー!
それから数百年経ち、血縁が遠くなるにつれて王朝の王達に対するグリップが弱くなり、国同士は縄張り争いを始めましたー。
そうこうしている間に周王朝は異民族によって滅ぼされ、洛陽で再興するも王朝としての力を失ってしまいますー!
中華から王朝がなくなり、王朝が任命した数々の国が残りましたー!
国同士は次の王朝の座を巡って本格的に争いだしましたー!
これを春秋戦国時代といいますー!
これを嘆いた魯国の学者、孔丘は各地の宗法を体系的にまとめ儒教を完成させましたー
姫氏の国王は宗法に沿って姫宗族長の周王朝に尽くすべき!この宗法を用いた国家統治システムのことを儒教と言いますー!
無数の大家族の集合体、これが周王朝の統治構造でしたが、中東からのイノベーションで500年続いた春秋戦国時代のパワーバランスが崩れます
アケメネス朝ペルシャがアレクサンダー王の侵攻により滅ぼされますー!
国を追われたペルシャ人はスキタイという遊牧の民となり、安住の地を求めて東へ逃亡しましたよー!
中華にたどり着いたペルシャ人は2手に分かれますー!
遊牧に馴染んだ者は匈奴として中華の北部で遊牧生活を営み、定住を望む者は同じペルシャ人が祖先である秦という弱小国家流入しましたー!
秦の初代は非子というペルシャ人ですー!
非子は馬の育成名人で有名でしたー!
周の孝王は非子に馬の育成を依頼し、それに応えて非子は立派な名馬を次々孝王に献上しましたー!
孝王はこれを喜び、秦という牧畜用の邑を設立し、非子に秦邑の祖先となることを許しましたー!
この時孝王が非子に与えた姓が「嬴」ですー!
嬴はコンドルの象形文字です
ゾロアスター教という原始宗教を信じるペルシャ人がコンドルを崇めたことから付けられた姓ですー!
ただの牧場に過ぎなかった秦邑はアケメネスペルシャの人々の流入で一気に強国になりますー!
その秘密はハンムラビ法典と製鉄ですー!
ペルシャ人が持ち込んだ国家法という新概念と鉄製の武器で秦は中華を制圧出来る武力を持ちましたー!
31代秦王嬴政の時代には韓非子と李斯によって法治という概念が産み出され、秦は万里の長城建設を以て初めて中華の範囲を確定し、法治国家秦を爆誕させ、自らを始皇帝と呼称しましたー!
ちなみに中国人が言う法治の法とは皇帝の命令という意味ですー!
私達日本人が思い浮かべる法治とは別物なのでご注意くださーい!