要地荊州を巡る攻防。
赤壁の戦いの翌年の209年、病弱だった劉琦が病死しましたー。
むー、早い!早すぎる!!
こうして荊州は呉孫氏の傘下に入り、、、ませんでしたよー。
劉備「頼むよー!居候の俺たちの居場所がなくなっちゃうじゃんかー!ちょっと待ってくれよー!」
「曹操の力も及ばず、孫氏の領土もない地域が1つあります!蜀の地ですよー。ここを取って治めれば良いですー!蜀取りを支援する様に我が殿にかけあってみますー!」
これを後に天下三分の計と呼ぶようになりましたが、天下三分の計を発案し劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく魯粛なんですよー。
魯粛は劉備との話を持ち帰り、孫氏の族長孫権に報告しましたー。
確かに劉琦の死亡後は荊州は孫氏に譲渡する約束ではありましたが、劉琦の死亡が想定より圧倒的に早かったため、孫権は荊州譲渡の猶予を与えましたよー。
約束は「劉備が蜀を取ったら荊州を孫権に譲渡する」に更新されましたー!
これを受け、孫権は劉備に約束を課す代わりに妹を劉備に嫁がせることで目一杯の誠意を見せましたー。
挙式のために呉に訪れた劉備でしたが、ここで孫権に耳打ちする者がいましたよー。
龐統「晴れて殿と劉備は義兄弟となったわけですが、この機会に劉備を呉に留め、贅沢三昧を味合わせ、君主として過酷な戦場を走り回るより孫氏の庇護のもと楽しく暮らした方が得策だ!と刷り込んじゃいましょー。」
龐統の策通り劉備は見事に堕落しましたが、お伴の趙雲に超怒られしぶしぶ荊州に帰りましたよー。
この後3年間、劉備は蜀攻めに動くわけでもなく荊州に相変わらず居座ったまま時間だけが過ぎていきましたー。