易姓革命、爆誕するってよ
中華の西部に位置する邑の中で、巨大な力を持った伯という邑がありましたー!
この邑の宗族族長は姫昌という人でしたー!
姫昌は、男女含めて100人以上子供がいた、とっても子沢山な人でしたー!!
姫昌は豊富にいる娘をあちこちの邑にお嫁に出し、親交を結んでいきましたー。
ちなみに、有力宗族の姫氏から来た女子を各邑が丁重に扱った事から、現在の「お姫様」という言葉が生まれましたよー。
そんな時、姫氏の邑の西隣で殷王朝に対する怨みをふつふつと溜め込んでいる老人がいましたー。
太公望は姫昌に近づき、殷王朝の中心、商邑を滅ぼし、姫氏が占い師の座を奪い取る事を提案しますー。
それに同意した姫昌は占いの技術を太公望から学ぶべく、太公望に弟子入りしましたー。
姫昌は病に倒れ、息子の姫発が宗族長になると商への反乱計画は具体的に動き出しましたー。
この時、殷の頭領は紂王という人でしたー。
妲己は創作上の人物で、数々の祭事の痕跡から紂王は精力的に占いを行う勤勉な占い師であったと判断できますー。
この時代は占い=政治だったので紂王は立派な王だったと考えるのが妥当ですねー。
姫宗族長の姫発は自らを武王と称し、伯邑から婚姻で繋がるネットワークを周と定め、殷の占いネットワークに反旗を翻しましたー!
殷に勝つため、長年に渡り策を練りに練っていた太公望が軍師として指揮した周軍は牧野の戦いで見事に殷軍を撃ち破り、商邑は壊滅しましたー。
こうして周は力ずくで殷から占い師の座を奪い取ったのでしたー。
政治の最高権力を握る占い師の易の力が別の姓の宗族に移る事を易姓革命と言いますー。
住む邑を失った商邑の人達は放浪しながら商売で生き長らえ、世界各地に散っていき華僑の始祖となりましたー。
今でも商売で身を立てる人の事を商人と言うのは、この商邑の人達が語源ですー。