消化試合のはずが、、、長い!
西暦200年、後漢の天下人を決める決勝戦である官渡の戦いを曹操が制したことにより、天下は曹操の物になるのが既定路線となりましたー。
袁紹は官渡の戦いの2年後死亡し、跡目争いをしていた河北を曹操が一気に手中に納め、曹操は中華の2/3を掌握しましたー。
さらに曹操は同じ袁紹陣営だった劉表を傘下に納めようと画策しますー。
病を患っていた劉表は跡取りを劉琦と定めましたが、劉琦には曹操に敗れ、荊州にたどり着き、曹操に徹底抗戦を主張する劉備がべったり引っ付いてましたよー。
このまま劉表の遺言通り劉琦が跡継ぎになると、荊州は曹操と正面衝突する事になりますー!
それを嫌がった勢力が劉琦の弟の劉琮とその外戚の蔡氏の元へ集いますー。
こうして荊州は真っ二つに分かれてしまいましたー。
劉琮派の筆頭は蔡瑁という人物でしたよー。
蔡瑁には姉が2人いましたー。
姉の1人は蔡氏、劉表の妻で劉琮の母。
もう1人の姉は黄承彦という人の妻で、その娘を黄月英といいましたー。
当然ながら諸葛亮は劉琮側の人間ですが、跡目争いの結果を見てから士官しようと悠長に構えていましたよー。
そんな中、ヤクザの親分劉備に見つかり追い回されますー。
自分を劉備に推挙した徐庶を恨みながら諸葛亮は2度劉備の襲撃をかわしましたが、寝込みを襲われた三度目に捕まってしまいましたー。
諸葛亮はヤクザトリオの押しに負けて劉備軍に加わることになりましたー。
義理の従兄弟に当たる劉琮を裏切り諸葛亮は劉琦派閥に属することになりましたー。
こうして南下してくる曹操軍に対し、劉琮派は降伏、劉琦派は抗戦という図式になりましたー。