三国志の決勝戦始まる!
4代三公のスーパーエリート、袁家同士の天下人を巡る争いがスタートしますー。
袁紹は劉虞という人物を帝に担いで天下に号令しようと考えましたー。
しかし、劉虞は行方不明の劉協に気を遣って頑なに帝位を拒否していましたー。
ある日袁紹と不仲だった公孫瓚が袁紹に追い詰められているのを見て、同じく公孫瓚を嫌っていた劉虞は10万の兵を興し、公孫瓚を攻めましたー。
この時劉虞が出した命令はこれですー。
「敵は公孫瓚1人、その他の将兵は傷つけてはいけないし、殺すなどもってのほかですー!」
これで劉虞軍は大混乱し、1000騎しかいない公孫瓚軍に敗北して劉虞は処刑されましたー。
こうして袁紹の天下人の野望は潰えましたよー。
一方の袁術は易姓革命を以て自ら帝位に就き中華を治めようと考えました。
しかし、最強配下だった孫堅が死亡し、孫氏が離散してからの皇帝宣言となりましたー!
袁術は強引に易姓革命を実行するには少し力が足りませんでしたねー。
孫堅の長男孫策は皇帝宣言はやめなはれと何度も手紙を書いて袁術を諌めましたが、袁術が皇帝を名乗ると「やってられっか!」と言わんばかりに袁術軍から抜けて、山越が住む中華南部に新天地を求めて独立しましたー。
袁術は孫堅が死亡した際、号泣しながら孫策を抱き締め、それから孫策の親代わりとして面倒を見ていたため、孫策は袁術に深い忠誠心を抱いていましたー。
その孫策が袁術の元を離れるほど、袁術の皇帝宣言はK.Yな物となってしまいましたー。
独立後も孫策は嫁にもらった袁術の娘を生涯大切にし、その没後も弟の孫権が袁姫を大切に保護しましたよー。
様々な人達の反感をかい、袁術の天下人構想も胡散していくのでしたー。
皇帝が行方不明?乱世必至ですー!
帝を連れて長安に遷都した董卓を反董卓連合軍は追いかけませんでしたよー。
それほど函谷関は守りに長けた関所でしたー。
さらには連合軍のリーダー袁紹は何氏の息のかかった劉弁を正式な帝と考えていたため、董卓が勝手に即位させた劉協にはさほど価値を感じていなかったのかも知れませーん。
董卓を討ち取って帝を奪い返す事を主目的としていた曹操や劉備は袁紹との思惑のズレが原因で連合軍から抜けてしまいますー。
こうして連合軍はグダグダになりフェードアウトしていきましたー。
ほどなくして、長安の董卓は部下の呂布に暗殺されるという冴えない最後を遂げましたー。
こうして都長安と帝劉協を握った呂布が次の天下人、、、とはなりませんでしたー。
董卓の部下、李傕、郭汜、賈詡らに攻め入られ、呂布は長安から追い出されて放浪の身となりましたー。
次の天下人は李傕か郭汜か?
この2人は仲間割れを始めて長安は戦火にみまわれましたよー。
これはたまらんという事で帝劉協はお付きの官僚に連れられて長安から逃亡し、行方不明となりましたー。
さて、中華の頂点に立つ皇帝が不在となり、漢王朝はいよいよヤバい感じになってきましたー。
この皇帝不在の状況が続いたために、諸侯はそれぞれ新たな統治体制を模索し始めましたー。
袁紹は劉虞という漢王朝の血を引く人物を次の帝にしようと画策し、
偽帝と言われた袁術の案は中華の歴史に照らせばそれほど珍しい話ではなく、これを実行しようというものが現れるほど、洛陽が焼け落ち、皇帝が行方不明状態の漢の命運は風前の灯火となったのでしたー。
反董卓連合軍
天下人の座を横取りしてしまったことを気にして、董卓は袁紹にかなり気を遣っていましたが、袁紹の怒りはおさまりませんでしたよー。
袁紹「この名門、スーパーエリート袁紹さまがあんな僻地の田舎者の下につけるかー!」
この袁紹の意見に同調する人がいましたー!
「はげ同!あんな田舎者は俺が暗殺してやる!」
父が三公だった名門夏候氏のシティボーイ曹操ですよー。
董卓暗殺を決行した曹操でしたが、作戦は失敗に終わり追われる身となりましたー。
後に退けなくなった曹操は董卓大嫌いな袁紹を動かし、反董卓連合軍を組織しますー。
庶民経済を建て直す政策を連発する董卓をいぶかしく思っていた中華の既得権益者はこぞって連合軍に参加しましたー。
董卓の理念は一貫していましたー。
「人の上に立つものは優れた人物でなくてはならない」
劉弁より弟の劉協の方が優れていると見た董卓は皇帝を劉協に勝手に変更してしまいましたよー。
外戚である何氏の力を削ぐ狙いもあったのかも知れませんが、田舎育ちの董卓にはロイヤルという概念は理解出来なかったのかも知れませんねー。
この行為が連合軍をさらに膨らませてしまいましたー。
連合軍の主な勢力は4代三公でお馴染み、袁紹と、同じく袁氏の袁術、さらには父親が三公の曹操。この三勢力でしたー。
中でも呉の軍閥孫氏を配下に持つ袁術の勢力は強大で、孫堅率いる呉軍閥はすぐに漢軍最強の将軍華雄を討ち取ってしまいましたー。
虎牢関を抜かれた董卓は敗北を悟り、洛陽を捨てて帝を連れて長安に遷都しましたよー。
さて、ここで地理のお話、中華の2大首都と言えば洛陽と長安ですねー。
この2つの都市の間には函谷関という中華最強の関所がありますー。
帝の敵が中原にいる時、東からの侵入を函谷関で防ぐため、首都は長安になりますー。
そして中華が泰平となると敵は異民族ということになり、西からの侵入を函谷関で防ぐため、首都は洛陽となりますー。
項羽を敵と見立てた劉邦は首都に長安を選び、匈奴を敵と見立てた光武帝は洛陽を首都に定めたというわけですー。
董卓の遷都は古代中華の基本戦略に基づいたものでしたよー、
宗族主義から実力主義へ!ヒッピーの成り上がり!
大将軍何進の仇、十常侍を皆殺しにした袁紹は天下人にリーチをかけましたよー。
袁紹は袁家の宗族長ですー。
袁家は漢の最高官位、三公を4代輩出した名門中の名門ですー!
家柄、能力、何進の後を継ぐ正統性、全てがパーフェクトでしたー。
後は帝の身柄を抑えれば一件落着!
袁紹は血眼になって十常侍との戦いの最中、行方不明となった帝を探しましたよー。
そんな頃、洛陽にトボトボたどり着いた董卓は広野で2人の少年に出会いましたー。
邑外は山賊の領域、子供2人では危ないので董卓は子供達を馬に乗せて家まで送ってあげましたー。
この少年こそが漢の皇帝劉弁とその弟劉協でしたよー。
偶然董卓は帝と洛陽を同時に抑え、何進の正当後継者、袁紹を差し置いて天下人となりましたー!
棚ぼた的に天下人となった董卓は、それならいっちょやったるか!と超真面目に政治を始めますー。
まずは十常侍によって政治犯認定されていた囚人を全員解放し、その中から優秀な者をドンドン採用しましたー。
漢は人材を能力で採用するのではなく、徳という儒教的ポイントで採用する制度を採っており、宗法が元になっている儒教においては家柄やコネクションが重視されていましたよー。
泰平の世の中では上手く回るこのシステムも食糧不足の窮地においては対応力に欠けましたー。
元々僻地の人物である董卓は家柄に全く執着はなく、徳採用から能力採用にガンガン人材を改めましたー。
さらに、超絶デフレで崩壊しかけていた漢の経済を復旧すべく、銅銭の銅の含有量を薄め、通貨を大量発行し流通させるために公共事業を広く行う、いわゆるリフレ政策を採りましたー。
この能力採用は有力宗族の反感を買いますー。
「あいつより俺の方が家柄が良いのになぜあいつが俺より偉い官職についているんだー!」
ということですねー。
そしてこのリフレ政策はせっせと財産を貯めてきた有力者の反感を買いましたー。
「必死で溜め込んだ俺の財産を目減りさせやがってー!」
黄巾の乱!
太平道の元に集いし山賊達は頭に黄色い布を巻いて武装蜂起を始めますー。
彼らは黄巾党と呼ばれましたー。
漢王朝には自らの力でこれを制圧する力はもはや無く、各地に散らばる有名宗族や軍閥にその討伐を依頼しましたー。
程なくし、教祖張角が病死し、黄巾族は崩壊、黄巾党の残党は青州組と漢中組に分かれて元の山賊暮らしに戻りましたー。
黄巾の乱に一応の決着を見たものの、民衆から叛かれ、それを抑える力もない事が露見した漢王朝の権威は失墜しましたー。
そう考えた漢の大将軍何進は十常侍を討つべく、各地に散った有力宗族や軍閥の長を首都洛陽に呼び寄せましたー。
この動きを読んでいた十常侍は先手を打って何進を殺害しましたよー。
袁紹は速攻で十常侍を皆殺し、主君何進の仇を討ち、後は帝を抑えれば次の天下人の座は確定でしたー。
少し時間を戻しますー!
若者は西涼から羌族の住む領域辺りを馬に乗ってヒッピー生活をしながら羌族の族長達と親交を結んでいましたー。
そろそろ家でも持たなくては、若者は掘っ建て小屋に牛一頭飼いながら農業をして貧しく暮らしていましたー。
そんな時、羌族の族長たちが若者を訪ねてきましたよー。
若者は彼らをもてなす術を持たなかったため、唯一の財産である牛を捌いて族長達をもてなしましたー。
この態度に感激した羌族は若者に後日大量の貢物を届けてくれましたー。
この貢物から賄賂を支払い、若者は西涼の役人として仕官しましたよー。
若者の名前を董卓と言いましたー。
董卓は勇猛で頭も切れたため、どんどん出世しましたが、得た褒美をドンドン部下に分け与えていたため相変わらず貧乏なままでしたー。
ある日、羌族の制圧のため、都から皇甫嵩というとっても偉い将軍がやってきましたー。
羌族に詳しい董卓はすぐに皇甫嵩に召し出されましたが、恩のある羌族の情報を売り渡すことはせず、ダラダラと過ごしましたー。
そんな時、皇甫嵩の元に何進から十常侍討伐のため、洛陽に集結するよう沙汰が届きましたー。
皇甫嵩は全く役に立とうとしない董卓から手勢を取り上げ、わずかな兵とともに自分の代わりに董卓を洛陽に向かわせましたー。
漢臣の立場と羌族との友情の間に板挟みになった董卓は、信頼のおける部下達と離ればなれとなり、トボトボと洛陽に向かったのでしたー。
三国志、始まり始まりー!
劉邦が漢を建国してから400年もの間、泰平の時代が続きましたー。
法治と儒教の折衷案が強固だったことと、この400年の間、気候も温暖で食糧も比較的豊富にあった事が影響していましたー。
しかし、気候は常に300から400年周期で変動しますー。
西暦180年頃には寒冷化が顕著化し、食糧が枯渇しましたー。
枯渇する食糧のインフレを恐れ、漢王朝は通貨の発行を超絶絞りましたよー。
給料がごっそり削られ、宗族への仕送りどころか生活もままならなくなった地方官僚達は、ことあるごとに賄賂を要求し、なんとか暮らしていましたー。
通貨の量が圧倒的に足りないため、収穫の減った農作物も安く買い叩かれ農民の暮らしも傾いて行きましたー。
超絶デフレによって中華の経済は壊滅し、あちこちで病死、餓死者が増加、中華は地獄と化しましたー。
そんな時1人のお医者さんが立ち上がりましたよー!
その医者の名は張角。
張角は貧しい者にも分け隔てなく医療を提供したため、民衆から絶大な支持を得て中華初の宗教団体「太平道」を設立しましたー。
この太平道が五斗米道として生き残り、道教となって後の中華文化に多大な影響を与えましたー。
ではこの太平道の教義とはどの様なものだったのか?
答えは超シンプル
「善いことすると寿命延びるぜ!」
これだけですー。
始皇帝然り、権力者とは最後には自分の寿命に執着する物ですー。
その権力者に善行を行わせるためには上手い手ですねー。
食い詰めた人民が邑を出て、山賊となる、中華のいつもの悪いパターンは加速し、これらが太平道の元に集結し各地で一斉に蜂起しましたー。
これを黄巾の乱と言いますよー。
ちなみに、後に太平道から生まれた道教の神様のことを「仙人」と言いますー。
これは善行をやり過ぎて寿命延びまくりで不老不死までたどり着いた人のことですー。
そして仙人を目指して日夜善行に励む人のことを道士と言いますー。
漢の400年、、、はしょりますー
ごっつ三国ではまだ扱っていない、漢の400年間はごっそり省きますー。
大まかな解説のみ置いておきますよー。
匈奴の属国となった漢は中華の中央集権化をどんどん進めますー。
英布、彭越ら諸侯国王も漢軍に討たれましたー。
劉邦は新たな諸侯国は作らないように遺言しましたが、劉邦没後、劉邦の妻呂雉は呂氏の国を作りますー。
これが宗族主義がもたらす「外戚」という負の側面ですねー。
劉邦の妻は劉氏の人間ではなく、飽くまで呂氏の人間であり、劉氏の利益よりも呂氏の利益を優先するためこの様な裏切りが発生するわけですー。
中央集権を狙う漢王朝と自治を守りたい諸侯国のにらみ合いは数十年続きましたが、7代皇帝武帝の時代に転機が訪れますー。
なんと、地球が温暖化したのでしたー!
中華北方異民族の特徴なのですが、地球が寒冷化すると牧草を求めて南下し、温暖化すると北上し領域を拡大しますー。
北に散っていった匈奴の戦線が薄くなったところを漢が一気に巻き返し、匈奴の属国から脱出しましたー!
さらに漢の諸侯国7国(王は全て劉氏)の反乱「呉楚七国の乱」が起こりこれを平定する事で武帝は漢の郡県制を確立しましたよー。
中華全土を手中に納めた武帝は、ある日はたと気がつきます。
武帝「あれ?これって始皇帝と同じ状況じゃない??俺、ヤバいんじゃない?」
慌てて儒教を取り込む方策を検討した武帝は、儒教を統治理論から学問に変容させ、儒教を国教とし、官僚の評価基準を徳の優劣で計る制度を設けましたー。
さらには地域代表を宗族同士の話し合いによって決定させ、中央集権に対する宗族の不満を緩和しつつ世襲を防ぐというとても上手い統治機構を作りましたよー。
法治的な中央集権ではあるものの、出世は儒教理解の優劣で決めるという強固な体制は漢400年(新は無視しますー)の礎となり、泰平の時代は続いていくのでしたー!