黄巾の乱!
太平道の元に集いし山賊達は頭に黄色い布を巻いて武装蜂起を始めますー。
彼らは黄巾党と呼ばれましたー。
漢王朝には自らの力でこれを制圧する力はもはや無く、各地に散らばる有名宗族や軍閥にその討伐を依頼しましたー。
程なくし、教祖張角が病死し、黄巾族は崩壊、黄巾党の残党は青州組と漢中組に分かれて元の山賊暮らしに戻りましたー。
黄巾の乱に一応の決着を見たものの、民衆から叛かれ、それを抑える力もない事が露見した漢王朝の権威は失墜しましたー。
そう考えた漢の大将軍何進は十常侍を討つべく、各地に散った有力宗族や軍閥の長を首都洛陽に呼び寄せましたー。
この動きを読んでいた十常侍は先手を打って何進を殺害しましたよー。
袁紹は速攻で十常侍を皆殺し、主君何進の仇を討ち、後は帝を抑えれば次の天下人の座は確定でしたー。
少し時間を戻しますー!
若者は西涼から羌族の住む領域辺りを馬に乗ってヒッピー生活をしながら羌族の族長達と親交を結んでいましたー。
そろそろ家でも持たなくては、若者は掘っ建て小屋に牛一頭飼いながら農業をして貧しく暮らしていましたー。
そんな時、羌族の族長たちが若者を訪ねてきましたよー。
若者は彼らをもてなす術を持たなかったため、唯一の財産である牛を捌いて族長達をもてなしましたー。
この態度に感激した羌族は若者に後日大量の貢物を届けてくれましたー。
この貢物から賄賂を支払い、若者は西涼の役人として仕官しましたよー。
若者の名前を董卓と言いましたー。
董卓は勇猛で頭も切れたため、どんどん出世しましたが、得た褒美をドンドン部下に分け与えていたため相変わらず貧乏なままでしたー。
ある日、羌族の制圧のため、都から皇甫嵩というとっても偉い将軍がやってきましたー。
羌族に詳しい董卓はすぐに皇甫嵩に召し出されましたが、恩のある羌族の情報を売り渡すことはせず、ダラダラと過ごしましたー。
そんな時、皇甫嵩の元に何進から十常侍討伐のため、洛陽に集結するよう沙汰が届きましたー。
皇甫嵩は全く役に立とうとしない董卓から手勢を取り上げ、わずかな兵とともに自分の代わりに董卓を洛陽に向かわせましたー。
漢臣の立場と羌族との友情の間に板挟みになった董卓は、信頼のおける部下達と離ればなれとなり、トボトボと洛陽に向かったのでしたー。