三国戦記 近江舞子ブログ

ごっつ三国、一騎当千サーバー、三国戦記所属、アカウント近江舞子のブログですー。

赤壁の戦い前夜。


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青州黄巾に続いて河北袁紹の勢力を吸収した曹操は、中華の2/3を手中に納めましたー。

残る勢力は崩壊した袁術の勢力を吸収した異民族山越が住む長江以南を本拠地とする軍閥孫氏だけとなりましたよー。

ちなみに蜀は秦が鉄鉱石目当てで併合して以来、中華の範囲に入っていますが、黄河文明とは全く違う古蜀文明というそもそも発生源が違う人達が住んでいたため、基本的に中央からは無視される存在でしたー。

曹操はまず、荊州を降伏させ、荊州の水軍を得ようと考えますー。

中原で戦歴を積み重ねた曹操軍は当然水軍を持っていませんからねー。

荊州の水軍を呉の水軍にぶつけて、その間に長江を渡り呉軍の本拠地を叩く。

この戦略のためには荊州を丸ごと手に入れる必要があるわけですが、このタイミングで劉表が亡くなり、荊州で暗躍していた劉備のせいで荊州は2つに割れてしまいましたー。

仕方なく曹操は劉琮派だけを取り込み、水軍の専門家である蔡瑁に水軍を任せ、船と兵を増強しましたー。

呉の孫氏は割れた荊州の劉琦派と同盟を結ぶために魯粛という人物を荊州に派遣しましたー。

呉の祖先孫堅劉表軍に討たれて以来、長年荊州と孫氏は敵対していましたが、劉表が亡くなった事により、過去の遺恨を捨てて手を結ぶという選択が可能となりましたー。

荊州に着いてみて魯粛は驚きましたよー。

劉琦おぼっちゃまの周りにたちの悪いヤクザどもがたむろしていましたー。

劉琦が話は劉備にしてくれと言うので魯粛はヤクザの親分劉備と同盟の交渉をする事となりますー。

荊州劉琦派と呉の利害は一致していたため、同盟はすんなりまとまりましたー。

後日、呉の軍責任者の周瑜劉備に会いに来ましたー。

劉備は本当に曹操相手に勝ち目があるか不安でたまらなかったので周瑜に呉の兵力を訪ねましたよー。

周瑜は答えましたー。兵力は3万です!これで余裕っしょ!

相手は曹操軍100万、これに対して3万ってなんじゃい!

劉備は益々不安になりましたが、周瑜は余裕ぶっこいていましたよー。

周瑜はおそらくこのように考えていたと思いますー。実質、劉琮派&曹操が追加した足手まといの素人軍団vs山越と日常茶飯事で水軍戦闘を繰り返して来た呉水軍3万。

これは負けるわけがありませんねー。

さらに別ルートからの曹操軍100万の上陸を阻む役は劉琦派の水軍で余裕で事足りますー。

水上での曹操軍100万は丸っきり無力ですからねー。

こうしてかの有名な赤壁の戦いの準備は万端に整いましたー。

 

 

消化試合のはずが、、、長い!


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西暦200年、後漢の天下人を決める決勝戦である官渡の戦い曹操が制したことにより、天下は曹操の物になるのが既定路線となりましたー。

袁紹官渡の戦いの2年後死亡し、跡目争いをしていた河北を曹操が一気に手中に納め、曹操は中華の2/3を掌握しましたー。

さらに曹操は同じ袁紹陣営だった劉表を傘下に納めようと画策しますー。

病を患っていた劉表は跡取りを劉琦と定めましたが、劉琦には曹操に敗れ、荊州にたどり着き、曹操に徹底抗戦を主張する劉備がべったり引っ付いてましたよー。

このまま劉表の遺言通り劉琦が跡継ぎになると、荊州曹操と正面衝突する事になりますー!

それを嫌がった勢力が劉琦の弟の劉琮とその外戚の蔡氏の元へ集いますー。

こうして荊州は真っ二つに分かれてしまいましたー。

劉琮派の筆頭は蔡瑁という人物でしたよー。

蔡瑁には姉が2人いましたー。

姉の1人は蔡氏、劉表の妻で劉琮の母。

もう1人の姉は黄承彦という人の妻で、その娘を黄月英といいましたー。

黄月英の夫が諸葛亮です。

諸葛亮にとって蔡瑁は義理の叔父に当たります。

当然ながら諸葛亮は劉琮側の人間ですが、跡目争いの結果を見てから士官しようと悠長に構えていましたよー。

そんな中、ヤクザの親分劉備に見つかり追い回されますー。

劉備が訪ねて来ると知ると諸葛亮は逃げ回りますよー。

自分を劉備に推挙した徐庶を恨みながら諸葛亮は2度劉備の襲撃をかわしましたが、寝込みを襲われた三度目に捕まってしまいましたー。

関羽張飛、めちゃ怖ええー。」

諸葛亮はヤクザトリオの押しに負けて劉備軍に加わることになりましたー。

義理の従兄弟に当たる劉琮を裏切り諸葛亮は劉琦派閥に属することになりましたー。

こうして南下してくる曹操軍に対し、劉琮派は降伏、劉琦派は抗戦という図式になりましたー。

 

 

 

官渡の戦い!


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袁家の袁術曹操に滅ぼされた事により、袁家の宗族長袁紹曹操の激突は既定路線となりました!

この情勢を見て劉備は徐州を乗っ取り、袁紹と戦う曹操の背後を突こうと考えましたー。

しかし、曹操はこれを見逃すほど甘くはなく、まず徐州を平定すべく劉備討伐軍を出しましたー。

劉備はあっさり敗北し、節操なく今度は袁紹の元に身を寄せますー。

袁紹劉備を厚遇しますが劉備袁紹にすぐさま進言しますー。

劉備「今すぐ黄河を渡って曹操をやっつけないと後々大変なことになりやすぜ!」

この言葉を受け入れた袁紹は70万の大軍を組織し、南伐軍を出しましたー!

曹操は対袁紹の為に築城した官渡城に籠城し袁紹軍を待ち受けましたー。

袁紹軍70万vs曹操軍7万、、、

こんなの無理じゃんかー!!と曹操は荀彧に泣きつき降伏すべきか尋ねましたが、荀彧にひっぱたかれて開戦を覚悟しましたー。

あっという間に70万人に取り囲まれた官渡城でしたが、曹操軍は袁紹軍の隙を突き、効果的に攻撃することで少しづつ袁紹軍の被害はかさんで行きましたー。

しかし、囲まれて補給を断たれた状態で籠城している官渡城の曹操軍は少しづつ飢えて行くのでしたー。

袁紹劉備に兵を与え、荀彧が守る許昌を荒らし回らせます。

兵力は1/10、食料不足、本拠地の危機、これらが重なり、曹操はまたもや泣き言の手紙を荀彧に送ります。

しかしまたもや一蹴されるのでしたー。

荀彧「ここで退いたら2度と袁紹には勝てんよ」

袁紹の住む河北は黄河の北側、オルドス地方にあります。

曹操の住む中原との間にこの黄河があったため袁紹の南進を阻んでこられましたが、仮に官渡城を取られ、袁紹黄河南部に拠点を持たれてしまうと曹操は一気にピンチに陥りますー。

荀彧に励まされ、曹操は官渡城でもうひと踏ん張りすることにしましたー。

やがて袁紹軍もほころび始めますー。

コツコツと袁紹の補給部隊を狙い袁紹軍の食料を奪い生き長らえる曹操

そのうち袁紹軍も70万という大軍を食べさせるだけの食料の運搬が難しくなってきましたよー。

袁紹は鳥巣という土地に食料を集め、ロジスティックスを整理することでスムーズに補給を実行する作戦を採りますー。

ここで曹操とは子供の頃からの友達だった許攸という人物が袁紹軍から寝返ってきましたよー。

袁紹への進言を受け入れられず不満を持っていたところに罪を犯した家族が田豊という人物に逮捕されたことがきっかけの寝返りでしたー。

許攸「曹操!鳥巣やで!鳥巣に袁紹軍の兵糧全部積んであるんやー!」

追い詰められていた曹操は藁にもすがる気持ちでこの許攸の言葉に全てをかけましたー!

鳥巣強襲!もうこれしかねー!

結果、袁紹軍の食料は焼き払われ、黄河の対岸で戦争を続けられなくなった袁紹軍は河北に引き上げていきましたー。

こうして袁紹の南伐をギリギリ耐え抜き、官渡の戦いに勝利した曹操は実質中華No1の座を手に入れましたが、袁紹の恐ろしさを体験してしまった曹操袁紹が死ぬまで2度と袁紹軍とは戦わないと心に誓うのでしたー。

裏切り王、劉備!


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敵対していたとはいえ、最後に和解した袁紹と彼の腹違いの弟袁術

しかし曹操に攻められ、敗走を続けた袁術は健康を害して河北に向かう途中に死亡しましたー。

これを期にかつては盟友だった袁紹曹操の対立は明確になりましたよー。

一方の曹操は客将として受け入れていた劉備を大変気に入っていましたー。

何処に行くにもお供につけ、自分の馬車に一緒に乗せて回った程ですー。

演義では

曹操「中華の英雄は君と余だ!」

雷ゴロゴロー!

劉備「ぎゃー雷怖いー!」

とかやってた頃ですー。

曹操劉備に官職を与え、袁術と戦わせるため兵を与えて徐州に入らせましたー!

曹操に敗北し、河北に向かおうとする袁術の道をふさいだのはこの劉備軍ですー。

劉備に行く手を遮られた袁術が死亡すると劉備は突然曹操を裏切り、曹操配下の徐州刺史、車冑を殺害しましたー。

突然の劉備の裏切りに激怒した曹操は徐州に向けて劉備討伐の軍を出しますー。

ここでもやっぱりボロ負けした劉備袁紹に寝返り河北に逃げましたー。

呂布の裏切りも大概ですが、この劉備の節操ない裏切り体質が事態をさらに悪化させていきますねー。

ここで劉備の身の振り方の履歴をおさらいしておきます。

旧知の仲だった公孫瓚の援助で挙兵した劉備袁術公孫瓚陶謙の陣営に入ります。

陶謙曹操に狙われると公孫瓚の配下として徐州に援軍に入ります。

徐州はダメだと判断した陶謙劉備は徐州太守を押し付けられます。

袁紹陣営だった呂布袁術陣営に寝返り劉備を頼ります。

ここで突如劉備袁術を裏切り袁術を攻めますよー。

袁術陣営に来たばかりの呂布はこの劉備の裏切りを良しとせず、留守の徐州を乗っ取りますー。

その上で袁術劉備を和解させます。

和解に応じた劉備でしたが、背後を突いた呂布を許せず、呂布に兵を向けたので呂布劉備軍を撃退しましたー。

兵を失った劉備は完全に袁術陣営を裏切り、袁紹陣営の曹操を頼りましたー。

袁術が皇帝を名乗り始めると曹操袁術軍を滅ぼしますー。

袁術死亡直後、劉備曹操を裏切り、徐州にいる曹操配下武将を殺害しましたー。

激怒した曹操劉備を攻め滅ぼしますが、袁術死亡で曹操と気まずくなった袁紹を頼り河北に逃げるのでしたー。

むー、劉備はかなりの悪だと見て間違いなさそうですー!

官渡の戦い前夜。


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徐州がややこしくなっている頃、河北では袁紹が宿敵、公孫瓚を滅ぼしましたー。

その際に袁紹が皇帝に担ごうと考えていた劉虞が公孫瓚に殺害されたため、袁紹の天下人構想は頓挫しましたー。

196年に長らく行方不明だった劉協が曹操に保護されると天下の流れは一気に曹操に向きましたよー。

これに焦って待ったをかけた袁術は197年に自ら皇帝を自称し、国号を「仲」と定めましたー。

こうして漢皇帝劉協vs仲皇帝袁術の戦いが勃発しましたー。

曹操は勅命を以て劉備袁術を討つよう指令を送ります。

袁術陶謙が仲違いしたとはいえ、徐州は元々袁術側の勢力だったことと、曹操が行った徐州大虐殺の恨みで徐州が敵側に回ることを懸念しての手当てでしたー。

劉備はすぐさま袁術に軍を向けますが、劉備軍が出払っている隙を突いて客将の呂布が徐州を乗っ取ってしまいましたー。

帰る城も補給も失った劉備軍は袁術軍とまともに戦えず、大半が飢え死にしましたよー。

流石にやり過ぎたか?と思った呂布劉備袁術の間に立ち、和解させますが、結局呂布劉備軍を攻め滅ぼし、劉備曹操の元に身を寄せましたー。

曹操劉備を厚遇し、曹操&劉備vs袁術&呂布の構図となりましたー。

曹操劉備はまず呂布を攻め滅ぼし、そのまま袁術軍も滅ぼしましたー。

袁術は長年敵対していた袁紹を頼り、失意の中河北へ向かう途中、1斗「18リットル」の血を吐いて死亡しましたよー。血多いですねー!

こうして皇帝劉協を抑えた曹操と天下人への算段を持たない袁紹の天王山、官渡の戦いに突入するのでしたー!!

 

 

決勝戦官渡の戦いに至るまで。


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三国志で最も重要な戦争はこの官渡の戦いで間違いありませーん!

曹操袁紹が覇権をかけて争った天下分け目の戦いですが、そこに至るまでの経緯は三国志の中で最もややこしいですー。

横山光輝先生もややこしすぎて1番大事な官渡の戦いをはしょるという神業を披露していますねー。

細部はいつか書きたいですが、超おおまかにいきますー!

董卓連合軍に敗北し、董卓長安に劉協を連れて行きましたー。

単独で追撃した曹操董卓配下徐栄にメッキメキにやられましたよー。

董卓が勝手に選んだ皇帝劉協に追撃奪還までやる価値はないと考えた袁氏の袁紹袁術はそれぞれ独自の中華統治案を模索しますー。

やがて董卓呂布に殺害され、呂布董卓配下だった李傕に長安から追い出されますー。

李傕は劉協の権威を利用し、恣意的な官職任命や勅令を連発したため、劉協の影響力は益々下がりましたー。

袁紹漢王朝の血を引く現三公の劉虞を新皇帝に担ごうと画策し、袁術は徳を失った漢皇帝から易姓革命を以て自ら皇帝として中華を治めようと画策しますー。

徐栄にメキメキにやられた曹操青州黄巾と呼ばれた黄巾族の残党を吸収し、力を盛り返しますー。

袁紹袁術の戦いが始まり、諸侯はそれぞれ支持する方に付きますー。

袁紹サイドには曹操劉表呂布などが付き、

袁術サイドには陶謙公孫瓚が付きましたー。

袁術陶謙と仲違いしますー。

陶謙袁紹曹操サイドに寝返ろうと曹操の父、曹嵩が徐州を通る際に曹嵩を厚くもてなし曹操に媚びようと考えましたが、曹嵩に持たせたたくさんの貢物に目が眩んだ陶謙配下が曹嵩を殺して逃げてしまいましたー!

曹操は超絶ぶちギレましたよー!

曹操は直ちに徐州に攻め込み、兵民の区別もなくひたすら殺しまくりましたー。

中華における曹操の悪者イメージの全てはこの大虐殺によるものですー。

徐州に大軍を向けている曹操の背後を突く者がいましたー。

袁紹の客将呂布ですー。

袁紹陣営を裏切り呂布が同じ袁紹陣営の曹操に噛みつきましたよー。

これにより、徐州への攻撃は一時止みましたが、曹操に睨まれて絶望の徐州太守の座を陶謙劉備に押し付けましたー。

劉備はなにも知らずに思いっきり貧乏くじを引かされましたよー。

ここで新たに劉備配下になった男がこう言いましたー。

「今徐州太守になるのは超やべーぜ!あんた、騙されてるんだよ!」

彼の名前は陳羣といいましたよー。

しかし劉備はどうしても領地が欲しかったので陳羣の意見は忘れることにしましたー。

曹操の背後を襲った呂布は結局負けて徐州太守の劉備を頼ってきましたー。

とにかくあっちにいったりこっちにいったりするこの呂布のせいで横山光輝先生が投げてしまうくらい事態はどんどん複雑化してしまうのでしたー。

 

決勝戦に割り込んだシティボーイ!


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漢の将軍、夏侯嬰を祖先とする夏侯氏という有力宗族がありましたー。

夏侯嬰の曾孫の時代には没落し、姓を剥奪され一時孫氏を名乗っていましたが、宣帝の時代には元の夏侯氏を名乗る事を許され復興しましたー。

後漢の時代に曹騰という宦官が帝の信任を得て宗族の設立を許された際に、夏侯氏から夏侯嵩という人物が新設された曹宗族の祖先となるため曹氏に養子に行きましたよー。

夏侯嵩は曹嵩と名前を改めましたー。

この曹嵩の息子が曹操孟徳ですー。

孟という文字は長男を意味していますー。

この文字が名前や字に入っている人は長男、さらには宗族長であることがほとんどです。

他には馬超孟起などが例に挙がりますねー。

そして、曹嵩の兄の息子が夏侯惇ですー。

曹嵩は本人の優秀さに加え養父の威光もあり三公の地位まで登り詰めましたー!

高い地位まで登り詰めた曹嵩を頼って夏侯氏はさらに繁栄しましたー。

夏侯氏を従えた曹氏は二代目の曹操の時代に大きく飛躍しますー!

後漢末期に起こった皇帝劉協行方不明という事態に端を発した袁紹袁術の天下人争いはどちらも奮わないまま乱世は続きましたよー。

そんな時、野望剥き出しで行動するもイマイチ空回りに終わっていた曹操に転機が訪れますー。

長安を脱出し、行方不明だった劉協が曹操を頼ってきましたー!

劉協を保護した曹操は焼け落ちた洛陽ではなく、自らの本拠地である許昌に遷都しましたー!

現皇帝の保護者となった曹操は天下人争いの最右翼に踊り出たのでしたー!